ルミネのアレで思うこと

ルミネCM炎上について。

炎上のきっかけが何であったか、炎上の過程に特定の人の恣意が果たしてどれだけはたらいていたのか、そのあたりはわたしはどうでもいい。

きっかけが何であったにせよ、CMの公開が中止されるほどの批判的・否定的な反応が集まったということに少しだけ驚いている。

一部の心無い男性からの一方的で屈辱的な品定めのまなざしに、これほど多くの女性達がいまだに悩まされ振り回されているのか、ということに、改めて衝撃を受けている。

自分を取り巻く環境ににどこかしら似たような要素があったり、思い当たる経験があるからこそCMの男性に怒りや不快感を感じるのだと思う。あるいはあそこまで露骨でないにしても、男性からの品定めのまなざしに不快感を覚えた経験がまったくない女性は少ないだろう。

わたしは高校生の頃、初めてそれを感じた。
当時のわたしはお世辞にも美しくはなかった。
愛想が悪く、小太りで、無駄毛の手入れもせず、男子生徒のようなショートカットで過ごしていた。
本当はクラスのマドンナのように屈託なく笑い、誰にでも優しくしたかった。年相応に身なりに気を遣いたかった。それをしなかったのは「努力してもどうせマドンナには適わないのだから」という屈折しつつ肥大化した自意識が原因だったのだが、まあその話は今はいい。
とにかく、わたしは高校生の頃に、同級生の男子生徒がわたしたち女子をコソコソ品定めするのを、非常な不快感をもって受け止めていた。

もちろんデブでブスで話もつまらないわたしは最下層である。

だから余計に不愉快なのだ、すなわち、上位のかわいい女子達はまだそこまででもないんだろう、と、ずっと思っていた。

しかし、である。

つつがなく大学デビューを果たしたわたしは、今で言う女子力を4年間で着々と高めていった。
その甲斐あってか、社会人になる頃にはなんとか人並みの容姿と愛想のよさを獲得することに成功した。
職場では、わたしこそがまさに「職場の華」であった。
わたしが配属された部署には、たぶん物珍しかっただけだとは思うが他部署からの見物客が訪れた。連絡先を何度も聞かれた。たまたま若い女性が少なかったところに配属されたのでそのような扱いになったのはよくわかっていた。自分に特別な魅力があるからではなく、ただ女の中で一番若いというだけでチヤホヤされているのだ、ということも、周りをよくよく見渡せば容易に理解できることだった。

しかしまあ、高校生の頃になりたかった自分になれたのである。職場に若い男性はたくさんいた。まばゆいばかりのイケメン達が次々とにこやかに話しかけてくれる。だってわたしは「職場の華」なんだから。

そこで感じたのは、安堵感でも優越感でもなく、ただただ、息苦しさだけだった。

彼らの期待を裏切らないように振る舞わなければ、もしそれができなくなったら、わたしは彼らから即座に必要とされなくなるのではないか、という強迫観念に囚われた時期もあった。
そして更に苦痛だったのが、同性の先輩に相談ができなかったことである。女性ならではの悩みなのに、身近な女性に相談ができない。よほど人間ができている人でない限り、嫌味か自慢としか受け止めてもらえないからだ。


高校生の頃のあのマドンナ達も、こんな気持ちを味わっていたのだろうか。

ルミネのCMの、華やかないでたちのあのもうひとりの女性も、同じ苦しみを味わっているんじゃないだろうか。
一部の男性からの恣意的で一方的な品定めのまなざしに苦しんでいるのは、主人公の女性も、あの女性も、同じなんじゃないだろうか。



今、わたしは会社員ではなく、個人で事業をやっている。景気はよくない。将来を考えると青息吐息だ。
しかし、わたしを品定めする男性のまなざし、そしてその一方的で屈辱的なものさしの中でもがく女性間のきしんだ関係からは、自由になれた。自分に縁遠いものになっていたから、鈍感になっていた。でもそうだ。わたしが以前勤めていたあの会社は今でもあるし、古い会社だから社風が数年で劇的に変わるようなこともないだろう。あそこでは今でもきっと「職場の華」を持て囃している。あそこだけではなく、日本中のあらゆる地域の職場には、きっと一部の男性からの恣意的で屈辱的な、女性への品定めのまなざしが、蔓延している。その現実に、目の前が暗くなる。